逸見について
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逸見政孝
逸見 政孝(いつみ まさたか、1945年2月16日 - 1993年12月25日)は日本の男性タレントで、司会 司会者、元フジテレビジョン フジテレビアナウンサーであった。愛称はいっつみい。血液型はB型。大阪府大阪市阿倍野区出身。妻はエッセイストの逸見晴恵、長男は俳優の逸見太郎、長女はタレントの逸見愛、実弟は元学生相撲大関で、トーメンに勤務し、後に胃がん(スキルス)で他界した逸見憲治である。
フジテレビ時代は特にニュースキャスターとして活躍。1988年にフリーアナウンサー フリーとなり、テレビでのバラエティ番組の司会やラジオ番組のパーソナリティーなどで人気を博した。
1993年9月6日に、異例の「癌告白会見」を行い芸能界を論議の渦に巻き込んだが、3ヶ月後の12月25日午後0時47分、癌性悪液質(スキルス)のため東京女子医科大学付属病院で死去した。
逸見元長
逸見 元長(へんみ もとます、元禄12年『寛政重修諸家譜』では没年齢から逆算して元禄14年の誕生となるが、ここでは新発田藩「御記録」(『新発田市史資料第一巻 新発田藩史料(1)』所収)に拠った。なお『新発田市史』上巻では「御記録」により元禄13年5月4日生まれとするが誤記であろう。5月4日 (旧暦) 5月4日(1699年6月1日) - 宝暦10年12月22日 (旧暦) 12月22日(1761年1月27日))は、江戸時代の旗本。越後国新発田藩4代藩主溝口重雄の四男上記「御記録」による。『寛政重修諸家譜』では三男。。5代藩主溝口重元の弟。分家して幕臣となるが、幕府からではなく、代々本家の新発田藩より蔵米を給される家であったこのように、知行や蔵米を幕府から直接でなく、本家の高のうちから分与される旗本は、大名の分家にしばしば見られる。このような分与を「内分」と呼ぶ。。幼名は金弥。通称は隼人。母は重雄の側室で京都の人(昌蓮院)上記「御記録」による。『寛政重修諸家譜』では島氏。なお諸説ある。。
逸見稔
逸見稔(へんみ みのる、1933年4月1日 - 1995年12月9日)は、日本のテレビプロデューサー。
人気テレビ時代劇『水戸黄門 (テレビドラマ) 水戸黄門』、『大岡越前』などを手掛けた。神奈川県出身。慶應義塾大学法学部卒。
日本、あるいは世界で最も多くのテレビ番組とCMを制作した人物。
大学を卒業すると同時に、松下電器産業に入社して、東京宣伝部に配属される。初仕事はCMソング「明るいナショナル」の担当。やがてドラマを任されることとなり、スポンサーという立場からクライアントプロデューサーとしてテレビ番組作りに参加し、青春ドラマのはしり「青年の樹」、ホームドラマのはしり『七人の孫』(森繁久弥主演)、クイズ番組のはしり『ズバリ!当てましょう』(フジ)等を制作、これら現在まで続くテレビ番組の各ジャンルを確立した功績は大きい。
逸見重雄
逸見 重雄(へんみ しげお、1899年 - 1977年10月16日)は、日本の社会運動家、経済学者。
非合法組織時代の日本共産党中央委員・政治局員を経て、戦後は中央労働学園大学、法政大学にて教鞭を執った。
北海道出身
1923年4月 東京帝国大学経済学部に入学
1925年4月 2年次修了後京都帝国大学経済学部へ転学
:岩田義道と社会科学研究会を結成
1926年1月27日 治安維持法違反などを容疑として岩田らと共に検挙され(京都学連事件)、中退
1933年
:5月3日 日本共産党中央委員、党中央財政部長(野呂栄太郎委員長の秘書的役割にも携わる)
:10月 日本共産党組織部長(財政部長の後任は小畑達夫)
:12月23日 スパイ査問事件
逸見のその時何が!
逸見のその時何が!(いつみのそのときなにが!)は、東京放送 TBS系で1993年4月から同年9月21日まで毎週火曜日22:00〜22:54に放送されていた毎日放送製作、逸見政孝司会の情報バラエティ番組である。上岡龍太郎がパネラーとして出演した。
各界の有名人の人生を振り返る内容で、第1回のテーマは逸見自身が現在の地位に至るまでに捨てたもの(恋人とか関西弁とか)だった。
番組が終了した後、後番組として1993年10月から逸見と上岡が司会の情報番組『迫って!GABURI。』が放送される予定だったが、逸見がガン闘病に専念するため降板。新たに島田紳助が司会を務めることになった。奇しくもこれが、逸見にとって最後の冠番組となってしまった。
逸見氏
逸見氏(へんみし)は、清和源氏・甲斐源氏の一族。逸見冠者源清光の長子逸見光長に始まる。
鎌倉時代、甲斐源氏の嫡流の座を武田氏と争ったが、和田合戦で和田義盛方について北条氏と敵対したため没落し、鎌倉幕府において栄達した武田氏の後塵を拝しつづけることとなる。
室町時代、上杉禅秀の乱が勃発し、武田氏が禅秀方について没落したため、逸見有直は鎌倉公方足利持氏と組んで甲斐国 甲斐を実効支配し、守護 甲斐守護の座を室町幕府 幕府に要求したが、鎌倉公方の勢力の増長を嫌う征夷大将軍 将軍足利義教に拒絶され、穴山満春 武田信元、次いで武田信重が甲斐守護として復活することになり、甲斐源氏嫡流の座を回復せんとする逸見氏の悲願は挫折を余儀なくされた。以降は一族の大部分は武田氏の被官化したとみられ、武田氏が守護職を得た若狭国、上総国などに逸見氏の名前があらわれるようになる。
逸見駅
逸見駅(へみえき)は、神奈川県横須賀市東逸見町にある、京浜急行電鉄京急本線 本線の鉄道駅 駅である。
プラットホーム 相対式ホーム2面4線を持つ高架駅。中央2線は通過線となっており、副本線にホームがある。また、横浜寄りに渡り線が設けられている。
堀ノ内駅 堀ノ内・浦賀駅 浦賀・京急久里浜駅 京急久里浜・三崎口駅 三崎口方面
金沢八景駅 金沢八景・上大岡駅 上大岡・横浜駅 横浜・京急蒲田駅 京急蒲田・品川駅 品川・泉岳寺駅 泉岳寺・都営地下鉄浅草線 都営浅草線方面
汀橋(なぎさばし・国道16号徒歩5分)
湘南京急バス
* 安浦二丁目 ※夕以降は日の出町経由
* 内川橋
横須賀市役所逸見行政センター
逸見良造
逸見 良造(へんみ りょうぞう) は、日本の作曲家、キーボーディスト、アレンジャー。愛称はハービー(大塚博堂、スクランブル・ダスティン・バンド時代)。
1965年 東京放送 TBS東京音楽祭キーボーディストとしてデビュー
1965年 日本放送協会 NHK紅白歌合戦レギュラーキーボード
1979年 山口百恵のコンサートマスター/アレンジャー/ピアニストとしてコンサートツアーに参加、引退まで在籍。
他では、大塚博堂のピアニスト/アレンジャー、菅原洋一、布施明、中尾ミエ、フォーリーブス、伊東ゆかり、島倉千代子、九重祐三子、天地総子、今陽子、岩本公水、森若里子、河合奈保子、松本伊代、佐野量子、早見優など
1983年 TBSザ・ベストテンレギュラーキーボード
逸見宗助
逸見宗助(へんみ そうすけ 1843年(天保14年)−1895年(明治28年))は剣術家。佐倉藩士・逸見信敬(立身流第17代家元 宗家)の子。
家伝の立身流を修行し、1860年(万延元年)居合目録を受ける。父の計らいで藩より剣術留学の許しを得て1861年(万延2年)江戸へ行き、藩の方針により桃井春蔵の士学館(鏡新明智流)を主として1年間修行する。(当時、佐倉藩では竹刀を用いた技術を採り入れるために、流派ごとに留学先を定めていた。立身流の場合は鏡新明智流となっていたので士学館に留学した)
帰国後、刀術所の師範並の役に就く。廃藩置県 廃藩後、八街(やちまた)の開墾に従事。
1878年(明治11年)頃、内務省警視局(警視庁)に入局。梶川義正、上田馬之助とともに本部武術課・撃剣専務教師として警視流木太刀形・立居合を制定し、警視流柔術の制定にも協力するなど、撃剣世話掛の中心的人物で警視庁剣術を取り仕切った。
逸見愛
逸見 愛(いつみ あい、1975年3月10日 - )は、日本の俳優 女優、タレント、レポーター。東京都出身。父は元フジテレビジョン フジテレビアナウンサーの逸見政孝。母は随筆家 エッセイストの逸見晴恵。兄は俳優の逸見太郎。叔父は元学生相撲大関の逸見憲治。
1990年にイギリスに留学。Wadhurst collegeにてダンス、英語、音楽、バレエの歴史、美術を学ぶ。帰国後、数々の舞台やテレビドラマ ドラマに出演し、女優として注目を浴びる。
また趣味の絵画の分野では「第24回世田谷区民絵画展」に初挑戦で銅賞を受賞。現在は得意の英語力と父親ゆずりの洞察力で、メジャーリーグ・ニューヨーク・ヤンキース ヤンキースの松井秀喜の番記者・レポーターとしてニューヨークを拠点に活躍。「ズームイン!!SUPER」のスポーツコーナー「GO GO GODZILLA」他、不定期に日本テレビ放送網 日本テレビのニュース番組に出演。
逸見政孝
逸見 政孝(いつみ まさたか、1945年2月16日 - 1993年12月25日)は日本の男性タレントで、司会 司会者、元フジテレビジョン フジテレビアナウンサーであった。愛称はいっつみい。血液型はB型。大阪府大阪市阿倍野区出身。妻はエッセイストの逸見晴恵、長男は俳優の逸見太郎、長女はタレントの逸見愛、実弟は元学生相撲大関で、トーメンに勤務し、後に胃がん(スキルス)で他界した逸見憲治である。
フジテレビ時代は特にニュースキャスターとして活躍。1988年にフリーアナウンサー フリーとなり、テレビでのバラエティ番組の司会やラジオ番組のパーソナリティーなどで人気を博した。
1993年9月6日に、異例の「癌告白会見」を行い芸能界を論議の渦に巻き込んだが、3ヶ月後の12月25日午後0時47分、癌性悪液質(スキルス)のため東京女子医科大学付属病院で死去した。
逸見元長
逸見 元長(へんみ もとます、元禄12年『寛政重修諸家譜』では没年齢から逆算して元禄14年の誕生となるが、ここでは新発田藩「御記録」(『新発田市史資料第一巻 新発田藩史料(1)』所収)に拠った。なお『新発田市史』上巻では「御記録」により元禄13年5月4日生まれとするが誤記であろう。5月4日 (旧暦) 5月4日(1699年6月1日) - 宝暦10年12月22日 (旧暦) 12月22日(1761年1月27日))は、江戸時代の旗本。越後国新発田藩4代藩主溝口重雄の四男上記「御記録」による。『寛政重修諸家譜』では三男。。5代藩主溝口重元の弟。分家して幕臣となるが、幕府からではなく、代々本家の新発田藩より蔵米を給される家であったこのように、知行や蔵米を幕府から直接でなく、本家の高のうちから分与される旗本は、大名の分家にしばしば見られる。このような分与を「内分」と呼ぶ。。幼名は金弥。通称は隼人。母は重雄の側室で京都の人(昌蓮院)上記「御記録」による。『寛政重修諸家譜』では島氏。なお諸説ある。。
逸見稔
逸見稔(へんみ みのる、1933年4月1日 - 1995年12月9日)は、日本のテレビプロデューサー。
人気テレビ時代劇『水戸黄門 (テレビドラマ) 水戸黄門』、『大岡越前』などを手掛けた。神奈川県出身。慶應義塾大学法学部卒。
日本、あるいは世界で最も多くのテレビ番組とCMを制作した人物。
大学を卒業すると同時に、松下電器産業に入社して、東京宣伝部に配属される。初仕事はCMソング「明るいナショナル」の担当。やがてドラマを任されることとなり、スポンサーという立場からクライアントプロデューサーとしてテレビ番組作りに参加し、青春ドラマのはしり「青年の樹」、ホームドラマのはしり『七人の孫』(森繁久弥主演)、クイズ番組のはしり『ズバリ!当てましょう』(フジ)等を制作、これら現在まで続くテレビ番組の各ジャンルを確立した功績は大きい。
逸見重雄
逸見 重雄(へんみ しげお、1899年 - 1977年10月16日)は、日本の社会運動家、経済学者。
非合法組織時代の日本共産党中央委員・政治局員を経て、戦後は中央労働学園大学、法政大学にて教鞭を執った。
北海道出身
1923年4月 東京帝国大学経済学部に入学
1925年4月 2年次修了後京都帝国大学経済学部へ転学
:岩田義道と社会科学研究会を結成
1926年1月27日 治安維持法違反などを容疑として岩田らと共に検挙され(京都学連事件)、中退
1933年
:5月3日 日本共産党中央委員、党中央財政部長(野呂栄太郎委員長の秘書的役割にも携わる)
:10月 日本共産党組織部長(財政部長の後任は小畑達夫)
:12月23日 スパイ査問事件
逸見のその時何が!
逸見のその時何が!(いつみのそのときなにが!)は、東京放送 TBS系で1993年4月から同年9月21日まで毎週火曜日22:00〜22:54に放送されていた毎日放送製作、逸見政孝司会の情報バラエティ番組である。上岡龍太郎がパネラーとして出演した。
各界の有名人の人生を振り返る内容で、第1回のテーマは逸見自身が現在の地位に至るまでに捨てたもの(恋人とか関西弁とか)だった。
番組が終了した後、後番組として1993年10月から逸見と上岡が司会の情報番組『迫って!GABURI。』が放送される予定だったが、逸見がガン闘病に専念するため降板。新たに島田紳助が司会を務めることになった。奇しくもこれが、逸見にとって最後の冠番組となってしまった。
逸見氏
逸見氏(へんみし)は、清和源氏・甲斐源氏の一族。逸見冠者源清光の長子逸見光長に始まる。
鎌倉時代、甲斐源氏の嫡流の座を武田氏と争ったが、和田合戦で和田義盛方について北条氏と敵対したため没落し、鎌倉幕府において栄達した武田氏の後塵を拝しつづけることとなる。
室町時代、上杉禅秀の乱が勃発し、武田氏が禅秀方について没落したため、逸見有直は鎌倉公方足利持氏と組んで甲斐国 甲斐を実効支配し、守護 甲斐守護の座を室町幕府 幕府に要求したが、鎌倉公方の勢力の増長を嫌う征夷大将軍 将軍足利義教に拒絶され、穴山満春 武田信元、次いで武田信重が甲斐守護として復活することになり、甲斐源氏嫡流の座を回復せんとする逸見氏の悲願は挫折を余儀なくされた。以降は一族の大部分は武田氏の被官化したとみられ、武田氏が守護職を得た若狭国、上総国などに逸見氏の名前があらわれるようになる。
逸見駅
逸見駅(へみえき)は、神奈川県横須賀市東逸見町にある、京浜急行電鉄京急本線 本線の鉄道駅 駅である。
プラットホーム 相対式ホーム2面4線を持つ高架駅。中央2線は通過線となっており、副本線にホームがある。また、横浜寄りに渡り線が設けられている。
堀ノ内駅 堀ノ内・浦賀駅 浦賀・京急久里浜駅 京急久里浜・三崎口駅 三崎口方面
金沢八景駅 金沢八景・上大岡駅 上大岡・横浜駅 横浜・京急蒲田駅 京急蒲田・品川駅 品川・泉岳寺駅 泉岳寺・都営地下鉄浅草線 都営浅草線方面
汀橋(なぎさばし・国道16号徒歩5分)
湘南京急バス
* 安浦二丁目 ※夕以降は日の出町経由
* 内川橋
横須賀市役所逸見行政センター
逸見良造
逸見 良造(へんみ りょうぞう) は、日本の作曲家、キーボーディスト、アレンジャー。愛称はハービー(大塚博堂、スクランブル・ダスティン・バンド時代)。
1965年 東京放送 TBS東京音楽祭キーボーディストとしてデビュー
1965年 日本放送協会 NHK紅白歌合戦レギュラーキーボード
1979年 山口百恵のコンサートマスター/アレンジャー/ピアニストとしてコンサートツアーに参加、引退まで在籍。
他では、大塚博堂のピアニスト/アレンジャー、菅原洋一、布施明、中尾ミエ、フォーリーブス、伊東ゆかり、島倉千代子、九重祐三子、天地総子、今陽子、岩本公水、森若里子、河合奈保子、松本伊代、佐野量子、早見優など
1983年 TBSザ・ベストテンレギュラーキーボード
逸見宗助
逸見宗助(へんみ そうすけ 1843年(天保14年)−1895年(明治28年))は剣術家。佐倉藩士・逸見信敬(立身流第17代家元 宗家)の子。
家伝の立身流を修行し、1860年(万延元年)居合目録を受ける。父の計らいで藩より剣術留学の許しを得て1861年(万延2年)江戸へ行き、藩の方針により桃井春蔵の士学館(鏡新明智流)を主として1年間修行する。(当時、佐倉藩では竹刀を用いた技術を採り入れるために、流派ごとに留学先を定めていた。立身流の場合は鏡新明智流となっていたので士学館に留学した)
帰国後、刀術所の師範並の役に就く。廃藩置県 廃藩後、八街(やちまた)の開墾に従事。
1878年(明治11年)頃、内務省警視局(警視庁)に入局。梶川義正、上田馬之助とともに本部武術課・撃剣専務教師として警視流木太刀形・立居合を制定し、警視流柔術の制定にも協力するなど、撃剣世話掛の中心的人物で警視庁剣術を取り仕切った。
逸見愛
逸見 愛(いつみ あい、1975年3月10日 - )は、日本の俳優 女優、タレント、レポーター。東京都出身。父は元フジテレビジョン フジテレビアナウンサーの逸見政孝。母は随筆家 エッセイストの逸見晴恵。兄は俳優の逸見太郎。叔父は元学生相撲大関の逸見憲治。
1990年にイギリスに留学。Wadhurst collegeにてダンス、英語、音楽、バレエの歴史、美術を学ぶ。帰国後、数々の舞台やテレビドラマ ドラマに出演し、女優として注目を浴びる。
また趣味の絵画の分野では「第24回世田谷区民絵画展」に初挑戦で銅賞を受賞。現在は得意の英語力と父親ゆずりの洞察力で、メジャーリーグ・ニューヨーク・ヤンキース ヤンキースの松井秀喜の番記者・レポーターとしてニューヨークを拠点に活躍。「ズームイン!!SUPER」のスポーツコーナー「GO GO GODZILLA」他、不定期に日本テレビ放送網 日本テレビのニュース番組に出演。

















